言葉遊びの面白さ
献灯使
多和田葉子
講談社文庫
複数の収録作に言葉遊びが用いられている。表題作が最も顕著だが、その他の作品にもちらほらと。
ある単語を漢字の当て字で表現したり、漢字を解体して偏を取り去ったり。かなり高度な言葉遊びと見た。いずれも巧みだ。それに、どの言葉遊びにも必然性が感じられる。
収録作は、おおむねディストピアをテーマとしたもの。高齢者が死ねなくなり、逆に若い世代が病弱になったり、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故ののちふたたび原発事故が発生した世界だったり、人類が滅亡したあとの動物たちの話し合いだったり。物語性はいずれも希薄に思えるが、もちろん、しっかりとしたストーリーにもなっている。
こうした世界になぜ言葉遊びが援用されるのだろうか。それはおそらく、世界認識、人間における対象の認識を問うているからだろう。単なる添え物で言葉遊びを取り入れているのではない。テーマとあまり関係のない言葉遊びを連ねているのでもない。いずれの言葉遊びもテーマに高い親和性を持っている。
それをどう読み取るかだが、意味は敢えて問わないほうがいいだろう。それよりも、言葉遊びがもたらす一種の不条理性に身を委ねるのがいいのではないか。わたしたちはふだん、冗談交じりに言葉遊びをもてあそんでいるが、それは対象を違った仕方で認識させようとするものだ。たとえば、「資格がなくても互角に勝負できる」というのがある。これは、ある業種で働く際に、公的資格がなくても働ける業種だから、裁量によって他の業者と渡り合えるという意味だ。このように、「資格」という言葉の意味をある程度異化していることになる。もちろん、この作品集に収められた言葉遊びのほうがはるかに高度なのだが。
ディストピアでは、人々は世界認識を新たにしなければならない。描かれている世界は尋常ではないのだ。そのことを想起させるために、描かれている世界を通常世界とは違うかたちで認識させるために、言葉遊びは援用されている。添え物のように読み飛ばすなかれ。どの言葉遊びも貴重である。